世界の窓
   北部ベトナム少数民族探訪


■実施 2011年4月7日?4月15日
■旅程 成田→ハノイ→ラオカイ→サパ→タフィン村・ラオチャイ村・ダヴァン村・バックハー
サンデイマーケット→サパ→ハノイ→成田

「ベトナム少数民族の村を訪ねて、美しい民俗衣装に出会う旅」を
思い立ったのは昨年の10月でした。参加を募ると希望者は10名。
内SIA会員は6名。旅程が出来上がり、旅費を払い込み、
出発準備を始めた矢先に大震災と原発事故。逡巡の上、旅を
決行しました。 以下は参加者のコメントで綴る旅報告です。

 




 「ベトナム旅行の計画がある事を初めてお聞きした時に、なぜだか分らないが、直感的にこれは
絶対行かなければと参加を即決した。しかし大震災で、旅行の計画は揺らいでしまった。行くべきか
行かないでおくべきか、あれやこれやと思案した結果それでも行きましょうと実行することになった。
被災者への支援はささやかながらも今できる事は全部やったし、「こんな時に海外旅行だなんて」と
言う後ろめたさは胸に納めて、さあベトナムへ出発」(MM)
   ( ハノイ ホーチミン廟 )            (ハノイ 下町の風景)     

「ハノイに到着。何と言っても一番驚いたのが、オートバイの多さだった。道幅一面を幾重にも埋め
尽くしたバイクにはヘルメットをかぶり、独特のマスクをした若者達がまたがる。しかも一台に
2~3人乗っている。なかには、隣のオートバイの人と話をしたり、運転手の後ろでメールを
打っていたりしている者もいてびっくりした。(TA)」 
 (市街地は間口4mのビルが林立する) ( 見渡す限りバイク・バイク・バイク!)
          


街には細い間口の三階建の家が身を寄せあって並ぶ。一方で郊外には高級高層マンションが
立ち並ぶ風景がある。ドイモイ政策後のベトナムは市場経済を取り入れて凄まじい経済発展の
途上である。ハノイは今建設ラッシュだという。
「元仏領インドネシアと呼ばれたベトナム。わたしはベトナムへの旅は二回目です。フランスは
建物の間口巾に税金をかけたので、今でも間口の狭い家が多いと聞きました。今回は黄色の家が
多いのに気が付きました。機内誌に『フランス人にとって、黄色は南方を連想する色である。
プロバンス地方産出のオークルストーンなどの石材から来ている』と読んだので、気になっていた
のかもしれない。一方でハノイはベトナムの経済格差拡大の縮図でもあります。「おしん」は
お手伝いさんを表す普通名詞として定着しているそうです。(OK)」

「夜行寝台列車ビクトリアエクスプレスで9時間。中国との国境の街ラオカイへ。更に北へバスで
走ってサパへ。ベトナム名物ホーの朝食を済ませ、店から出ると民族の服姿の女性達が、私たち
観光客を目あてに集まってきていました。この時期の気候は霧が深く霧の中のモン族との出会いは
幻想的でした。
   (サパの市場風景・・・新鮮な魚介類もこの内陸に届いている。)
     

(サパで商いをする黒モン族の女性達 )
      

サパからバスにゆられて着いたタフィン村。赤ザオ族の村です。さらにモン族の住むラオチャイ村、
ザイ族のダヴァン村へ出かけました。手に手に民族の布を持ち、それを買い求めるまで私達観光客
に英語で話しかけてきました。観光客は貴重な現金収入源で、どの部族も観光客を目当てに根気
よくついてきてきます。それにしても山岳民族の衣装はどれをとっても刺繍が素晴しくすべてを購入
したい心境でした。(KM)」
(タフィン村赤ザオ族の女性達)
     

山岳地帯は田起こしの季節だった。女達が商いをしている間、男達は田んぼで田植えの準備に
いそがしい。5月には田植えが始まるという。日本の関東エリアと同じ気候だ。懐かしい田園風景に
思える。農耕姻族の末裔の遺伝子が身体のどこかで騒ぐ風景だった。
   (水田を耕す人と水牛)            (赤ザオ族の家の中 テレビと電気はたいていある)
  
動力は水牛である。タフィン村の赤ザオ族の家を訪問出来た。電気とテレビは何処の家にもあるという。
 
 「予定表に天候により中止と書いてあったのは、雨が降れば川となる河原道もあり、そこは我々熟女達
には、厳しい道だった。棚田の景色は美しいが、そこを全て人力だけで、耕すのは、並たいていの苦労
ではないことは一目瞭然だ。モン族は、農耕民族。華やかな民族衣装を持った、自然と共生するつつ
ましい自給自足の社会だ。伝統文化継承よりも貧困からの脱出が最優先事項かとも思われるが、
「彼らはこの村からの脱出は全く考えていない」とガイドのタンさんから聞いた。元々モン族は、中国の
雲南省辺りで暮らしていたが、漢民族の迫害を受けて、南下の途中で不便な山谷こそが安全な場所と
考え分派し、自給自足の農耕の民となったという。民族の男達は、田畑を耕し、狩りをし、女達は糸を
紡ぎハタを織り、藍染めをし、それに刺繍を施した美しい民俗衣装の文化を作りあげてきたのだ。(YH)」
(麻布を織り。藍で染めるザイ族の女性)
   

「旅の一番の目的は少数民族を訪ねることだった。黒いスカーフを頭に巻いた黒モン族、赤いスカーフを
頭に巻いた赤ザオ族が美しい刺繍の布を売りにきた。ひと針ひと針細かに刺繍がしてあり手がかかって
いました。私は彼女たちがどの様にして手仕事をしているのか、姿を見たかったです。写真でもビデオ
でも良いのですが。刺繍の刺しかた、意味、デザインの言われなど、解かれば尚、いっそう大切な布に
成ったと思います。(TAさん)」

・ 旅は続きバックハーのサンデイマーケットへ・・・・・

「今も尚脈々と営まれる農耕民族の女たちの忍耐強さと原始の魂に心うたれた。とりわけバックハーの
サンデイマーケットでは、異次元にいるのではとさえ思ってしまう光景に、脳天から稲妻が入ったような
ショックをうけた。人の生活を成り立たせる古い時代の市場の姿がそこにあり活気で満ち溢れている。
世界で一番美しい民族衣装の一つと言われている花モン族の女性はどの角度から見ても美しかった
(MM)」

 「待ちに待ったバックハーのサンデイマーケット。市場に着いた時は花モン族や観光客で華やかに
賑わっており、その衣装の華やかさに目をみはりました。一度は訪れてみたいと思っていたこのマーケ
ットの雰囲気は感激で言い表せないものがあります。素晴らしい光景でした。今回の旅では、モン族、
赤ザオ族、ザイ族、花モン族、と多くの少数民族と出会うことができ、その衣装の特徴や刺繍は素晴ら
しく大満足でした(KM)」
 
 「少数民族への優遇施策があるとはいえ、彼らの貧しさには心が痛み、山村の平安な姿は原発と
震災地を後にしてきた私たちの心に滲みた。そして貧しさの中にある逞しさに心を揺さぶられ、普及
するテレビと携帯電話に、ベトナム社会の変貌の早さと底力を感じながらハノイへ帰った。(TE)」
 
        (バックハーのサンデイマーケット、花モン族の女性達)
  

 (商いをする奥さんを飲みながら待つ花モン族の男)  (トウモロコシを煮て酒を作るモン族の家族)        

   (見渡す限り広がる棚田、米を作り、畑にはトウモロコシを植え、お茶や野菜を収穫する)
 
 
・ 小さなこぼれ話
 高原の霧の町サパではガイドのタンさんからお聞きした週末のラブマーケットの話が気になりました。
少数民族の若者達が出会って、恋を語る夜のマーケット!
 ・・・・・「私はこの言葉を、旅行前にベトナムからの留学生から聞いていた。『男女が交互に楽器を
奏でたり、即興的に歌の掛け合いを行い、民族の間でパートナーを見つける為の奥ゆかしい伝統・・
日本の子供遊びの花一文目(二組に分かれて)、交互に歌う遊びに似ているように思う』とのこと。
ガイドのタンさんの「ラブマーケット」の説明によると、ホアンキエム湖の周りのベンチにカップルで
デートする場所のことを言っていた。つまり「デートスポット」のことのように解釈した。(YH)」

 今夜はそのラブマーケットの日とのタンさんの言葉に、興味津々ではありました。でも人の恋路を
邪魔するほど無粋ではないし、失礼千万なので、おとなしくホテルに帰りました・・・・・。黒モン族と
赤ザオ族の若者が結婚して、やがて伝統衣装が変化していくということなのでしょうか・・・・。
部族ごとにもつ民俗衣装の美しさには本当に心引かれました。
 
        (モン族の伝統的な民俗衣装)           (黒モン族衣装)


旅の終わりにベトナムの観光産業を支えるシルクショップへでかけ、刺繍村も訪問した。
ベトナムの伝統芸能水上人形劇も鑑賞した。

     (水上人形劇、ベトナムの農民生活をテーマにした劇でもある)

ベトナム戦争時代に使われた枯れ葉剤の影響は、若い人の身体に様々な形で障害として現れていると
いう。そうした若者達が働く刺繍やシルク製品の工場も訪ね、そこでは私たちは、帰国後のチャリテイー
バザーも意識して(?)しばし買い物ツアーのおばさん集団と化した。
 
・ 旅ではベトナム料理も堪能した。
「コーヒーやパンが美味しいのも被植民地に由来しているのでしょう。
次はフエにいってみたいとおもいます。日本人の口に合う美味しいベトナム料理と果物をもう一度体験
したいと願っています。(OK)」

「帰国時の空港で、ベトナムを忘れないでというメッセージのような光景を目にしました。ハノイ空港で韓国
に集団就職する大勢の青年達を間近に見ました。大声で騒ぐことなく、整列している彼らの表情は何処か
不安げで所在無なさを感じました。でもきっとこの青年達が母国に戻ってベトナムを更に確実に発展させて
いくのだと、そうしてほしいと願わずにはいられませんでした。(TH)」

「ベトナムから成田に着いた日は、青空が広がり、桜が咲いていました。余震が続いてはいたが、車の
流れ、アスファルトの道路、陽の光など、何時もと変わらぬ日本の風景に私は、安堵しました。(TA)」

「バイクにまたがる若者のものすごいパワーに将来のベトナム力を感じた旅でした。日程も内容も十分
満足出来る素敵な旅が出来ました。そして旅を通して皆様方と知り合いになれたことが素晴らしい財産
になりました。私もこの機会にSIAの会員にしていただくことをお願いしました!」(KK)

・ 「シン チャオ (こんにちは)

いつの間にか買い物ツアーのおばさん集団化した我々でしたが、見る、感じるところはしっかりと、
の旅が出来たとおもいます。家に着いて先ずは花や野菜に水遣りし、それから<がぁーと夕方まで
一寝入りし、接骨院でマッサージのリハビリを。朝も昼も抜き、お粥と菜花だけの夕食が美味しかったこと。
今日は大根と人参椎茸にイカの煮物、焼魚、青菜の和食です。皆さんと楽しく、有意義な八日間でした。
ありがとうございました。(YT)」

 帰国後の5月15日、被災地支援の義援金集めも兼ねて、旅の報告会を実施しました。
参加者全員が撮影した写真から編集したスライドショーとトークの学習会を行い、その後花モン族の
伝統衣装の実物展示等鑑賞しながら、生春巻きやベトナムコーヒーを楽しんだ一時でした。
購入してきたベトナムシルクのショールやモン族やザイ族の刺繍の小物を中心にチャリテイーバザーも
実施しました。旅友が2人が新会員としてSIAの仲間に加わりました。

学び、楽しみ、考え、そして被災地支援にもつなげることができた北部ベトナム少数民族探訪の旅でした。 
        (文責高嶋)


バラルララー! ありがとう!     
     ■■■ モンゴル 交流とゲル泊体験の旅 ■■■

 いつもホストファミリーとしてお世話になっているA.M .さんからモンゴル交流の旅行記が届きました!

 ウランバートルに行ってきました(5月31〜6月7日)。目的は第1回モンゴル国際マラソン大会を
走ることでした。突然に決めたので富山大に留学中のウンダルマーさんと現地のメグさんに
大変おせわになりました。ありがとう。「バヤルララー」。
メグさんにテレルジの大草原に連れて行ってもらい遊牧民家族とゲルで4日間くらしました。
ちょうど家族が移動してきたばかりだったのでゲルの組み立てを見ることができてすごくラッキ—でした。

 男たちはゲルを3棟建て、女たちはカラフルな箪笥や仏具をふいて運び込みながら食事作りにかかりきり。
子供たちも羊の面倒を見ています。みんな大忙しです。そんなところに変な日本人客がきて迷惑だったかも?
私はいつ食事にありつけるかと心配でした。でも、お母さんは毎回珍しい食事を作ってくれました。
� 肉うどん(ゴルリタェ シュル)�揚げ餃子(ホーショール) �野菜汁(ノゴートイ シュル) �肉まん(ボーズ)
 �塩ゆで肉(ツナサン マハ)など。
あまりおいしいのでお替わりに、から皿を持って台所(小屋)に行くと「よく食べるお客」と笑われました。
そうそう、ミルク茶(スータエツア)もよく飲みました。ただ生野菜がないので便秘になり、草原にポツンと
建つすごい小屋のトイレでハエと闘いながら「ウ~ン」とうなっていました。水ももったいないから身体を
拭くだけです。電気はろうそくの明かりです。天井からの星明かりがとてもロマンチックでした。

 私の孫と同じ年の女の子、男の子たちと棒とペットボトルで野球をしたり丘をかけっこしたりしました。
彼らはすごく働きます。夜9時薄暗い中を燃料の牛フン集めで歩き回ります。手伝うつもりでいたのですが、
さすがに素手でフンをつかめなくて2本指でつまんだら、それじゃあダメ!
両手でやりなさい」というゼスチャーされたので(無理無理)と首を振るしかありませんでした。
私も子供の頃、広島の農家だったのでヤギの乳しぼり、草刈り、馬乗りなど懐かしく思い出しました。
あっという間の4日間でした。近頃は観光用のゲルキャンプがあちこちにあります。
電気もシャワーもありレストランで食事して40ドルです。
そんなところはつまりません。こうやって大家族とすごせて幸せでした。(1泊15ドルお支払いしました)
なごりおしくてもっといたかったです。明日のマラソン大会などどうでもいい気になっていました。
案の定、5時間もかかってやっとのことでスフバートル広場にゴールできました。
また行きたいです。次は民族の祭典「ナーダム」をみて、同じゲルに泊まりたいなー。 
 

      ■■■ カメラを通して見たスリランカ ■■■
2009年7月12日実施
     講師 為我井輝忠氏
     日本スリランカ文化交流協会代表 SIA会員   
日本スリランカ文化交流協会代表であり、SIAの会員でもある為我井 輝忠さんが約20年前、
日本の雑誌にSenka Senanayake という大学生が「今スリランカは、内戦状態にあり、
多くの人が犠牲となっている。日本の方々にこのことを知ってもらいたい。そして助けて欲しい」
という内容の文章を読んだのがスリランカに興味を持つきっかけとなり、それ以来彼との
手紙のやり取りが続いた。
◎ 国の人口は約1900万人、面積は日本の九州より大きく北海道より小さい。
島国で「涙のしずく」と呼ばれる地形である。
◎民族はシンハラ人74%、タミル人18%、モスレム7%、バーガーと呼ばれる白人との混血が少数。
◎公用語はシンハラ語、タミル語、植民地支配の影響もあり、英語も広く使われている。
◎植民地の歴史
  ポルトガル領  (16世紀~17世紀前半)
  オランダ領   (17世紀後半~18世紀末)
  イギリス領   (18世紀末~ )
  1948年独立   国名を「セイロン」から「スリランカ」と変える。
◎宗教は<テーラワーダ仏教>日本の仏教と少し異なる(シンハラ人)。
   <ヒンズー教>  (タミル人)
   <イスラム教>   モスレム
   <キリスト教>   バーガーその他
      <仏像>
◎ 内戦の歴史
1977年シンハラ人の一部のグループ(JVP)が反政府運動を起こし内戦となった。
1983年タミル人の一部のグループ(LTTE)が国の一分割を要求し、反政府運動が
起き紛争が始まった。2009年5月、政府軍の攻略により、LTTEのリーダーが暗殺
されて内戦は終了した。
* このトーク&交流会に参加したスリランカの方々が「世界の人々はシンハラ人と
タミル人の民族間の対立による紛争と誤解しているが、本当はシンハラ人とタミル人は
仲が良いのです」とおっしゃっていました。為我井さんが内戦終了後センカさんと
対面を果たし、一か月間、彼とスリランカを一緒に旅行した。その後も何度も同国に
魅せられて訪ねたスリランカの自然、生活、食べ物、宗教、結婚式、お祭りなどの
写真を撮りました。
<自然>
手つかずの自然が沢山残っている。美しい川や湖、西海岸と東海岸の美しい海。
中央部には2000メートルを超える山々、それを取り囲む緑の紅茶畑や段々畑が
広がっている。四方を海に囲まれた島国なので漁業も盛んである。米作りは何期作も
行われており、高原野菜の栽培も盛んである。紅茶は世界弟2位の生産高。
宝石の産出も有名である。
<お祭り>
スリランカ最大の「ペラヘラ祭り」は有名である。キャンディという場所で毎年7月~8月
にかけて10日間、開催される。毎年開催日は異なる。
     <ヘラヘラ祭り>
日常の労働力としてのゾウの役割は大きいが、それだけでなく神聖な動物として様々な
祭りに登場する。「ペラヘラ祭り」ではたすゾウの役割は大きく100頭にも及ぶゾウの中で
頂点に立つゾウが「仏歯」を背に乗せて街中を10日間練り歩く。    
     <2頭の象>
野生のゾウは4頭から5頭が一つのグループで行動しているので観察するのはジープで
行かないと無理とのことです。 
     <野生のゾウ達>
<人々の生活の写真>
*建物や街並みは植民地時代、特にイギリス時代の影響が一番大きく残っている。
ゴールのフォートはオランダ時代の街並みがすべてユネスコの世界遺産に登録されている。 
     <ゴールの街並の写真>
*日本から輸入した中古バスが名前も消さず使われている
(日本車はかっこいいから、わざと消さないそうです)
     <中古のバス>
*イスラム教の人々が白い洋服を着てモスクに向かう人たち。
*寺院の前で蓮の花を売るひと。 
     <花を売る男性>
*お茶摘みをするタミル人の女性(安い賃金で働いているそうです)。
     <紅茶摘みの女性>
*キンマの葉に木の実を包んで噛む人(気分がよくなるそうです)。
*線路を歩く男性(電車の本数が少ないので・・・・)
     <線路を歩く男性>
*公園で傘をさしてデートするカップル(傘で二人の顔を隠している)。
     <広場にて>
* 結婚式のセレモニー(宗教により異なる。恋愛結婚より見合結婚が多い)
     <結婚式>
* スリランカの日常の食事
     <日常の食事>
<津波>
4年前に起きた津波はスリランカの人々には始めての経験で「津波が来るから逃げなさい」
と言われても津波が何のことか全くわからず誰も逃げようとしなかったそうです。災害援助
として贈られた衣類は喜ばれなかった。
水や医薬品の方が喜ばれたそうです。
<教育状況>
義務教育  9年間       (日本の小学校、中学校)
Ordinary  Level    2年    (日本の高校)
Advanced  Level   2年半   (日本の高校)
* OLかALを終了後、大学入試が受けられる。
トークの後の交流会はスリランカの若者を交えて和やかな雰囲気でした。
セイロン紅茶を飲みながらカレー味のクッキーやケーキなどスリランカの食
文化に触れながら話が弾みました。
司会の大田さんの音頭でこんにちはを意味する「スバタワサク」に始まり、またお会い
しましょうの「ネワタハムウエル」で終了いたしました。

 H.Y.さん記
 
      ■■■ 南米大陸・アコンカグア登頂を目指す旅 ■■■

                                     会員 GSさん記
 プロローグ


  アンデスの山々
 <写真クリックで
拡大表示されます>

動き始めた壮大な計画:
 ある忘年会の席で、「げんちゃん、アコンカグア登らない」、と山仲間。
南米は私には宇宙的存在。酔いに任せて途方もない計画が持ち上がった。
私の担当は渉外。さて、南米の言語は?スペイン語。早速、NHKラジオ
講座を聞き始めた実行の1年前。夏から秋は富士山へ高所訓練。
山頂へテントを持ち上げ一泊。退職後2年目、2005年1月出発。
アルゼンチンの首都ブエノスアイレスから国内便にてワインの名産地、
メンドーサへ。三浦雄一郎、植村直己、長谷川恒夫、写真家白川義員など
そうそうたるメンバーが宿泊した民宿。ここからパンアメリカンハイウエーを
飛ばしアコンカグア入山口、オルコネス湖。前方のアコンカグアに胸を熱くする。

● 峰を目指してスタート


アプローチ

 登山装備は、南米のカウボーイ、ガウチョに託し、木陰のない長い谷をひらすら歩く。
外国人グループを
追いつ抜かれつを繰り返し、再び黙々と。広い谷は
前方を行く蟻ような点の登山者を目標にアンデスの紺碧の空を仰いではため息。
今日の行程は10時間。
幕営地は富士山8合目程のコンフェレンシア。
装備はベースキャンプへ運ばれているので$10を支払い大型テント泊。
オランダ人親子と仲良くなり
お互いの食料を交換。インスタント味噌汁に感激して
いた。我らからは美味なサーモンの缶詰をいただく。夜中にトイレに立った時、
仰ぎ見た満点の星空は
生涯の思い出。南十字星を探して首が痛くなった。
フランス爺さんの鼾で浅い眠りだった。


登山口

アコンカグア南壁


 高度順化を兼ねて天才的クライマー、長谷川恒夫が
冬期単独登攀したアコンカグア南壁下部まで往復。
ポーランド隊と交流。登山道の足元には日本の高山
植物からは想像が出来ない奇妙な花がアンデスの
冷たい風に揺れていた。今日も長い一日だった。




高嶺の花ー1

高嶺の花ー2

富士山の訓練の効果か高所に慣れて高山病の
兆候は現れない。今日もあの黒く青いアンデスの
空の下を行く。登りもきつくなり高度が増し、周りの
アンデスが目線になってきた。「デスパシオ(ゆっくり)」、
と仲間に声を掛けると、「なんだそれ?」
。スペイン語を披瀝する。下山する外国人登山者に
「サクセス?」、と声を掛けると「イエス」は15%の返事。
アコンカグアの難しさを実感する。好天続きだった
この谷に黒い雲が重く落ちてきた。「ムーラ(ロバと
馬のかけあい種)落とし」、と呼ばれる急登に喘ぎ
夕闇のベースキャンプへこの身を持ち上げた。受付を済ませ、炊事場テントに入ると、
ポーランド、
スペイン、ドイツ、イタリアと我ら日本の国際調理場になった。ここから、禁酒の世界、ああ!4,200m。


ベースキャンプ


 B・C初日の朝は快晴で明けた。水場は薄氷が張っていた。昨夜も寒さで深い眠りが
保障されなかった。
前方にアコンカグアのマッターホルンと呼ばれるクエルノ山に
昨夜の新雪が積もり眩しかった。高度順化を兼ねて
谷を一つ隔てたホテルを往復した。
日本人名の寄せ書
きが並んだTシャツが吊るされていた。日本を思う。
夕方、診療所のヘルスチェックを受けると、仲間3人共びっくりする程の血圧が上がっていた。
さすが4、200m
の高地へ登っているのだと改めて実感。結局、3日間滞在するが、血圧は
下がらなかった。高所と加齢の成せる
業か?未知の4,200mとアンデスの真っ只中で私は満足だった。

無念のアコンカグア下山


アコンカグア 西壁」

 3人の内2人は中国ヒマラヤ7,000mを制覇したベテランで私はパキスタン5,200mに過ぎない
経験者。快晴のBCで今後を
相談した。一人は無断で登ってしまおうという考え。もう一人は
私の意見に同調してくれた。一向に下がらない血圧に寝転んだ寝袋で私が下した結論は
下山だった。年さらばえて海外登山
での事故の恥と迷惑を考えると下山の勇気が必要と思われた。
最早、高みへの渇望は失せていた。宇宙的存在の南米、再びこの地へ訪れる可能性は少なく、
予備日と登山活動の
余った日を広い南米旅行へ振り替える軟弱登山隊に変身。
(無断で登ろうと言った友人は昨年再挑戦したが、豪雪の為、頂上直下で撤退)。 
その日の夕暮れ、8時。アコンカグアの
別れのメッセージか南壁が真っ赤に焼けた。
<注:アコンカグアは7,000mに近い山の割には無雪期の夏があり、世界中から登山者が訪れ、
無謀な一部が遭難、それを
降ろすヘリの費用が年々かさみこの年よりアルゼンチンはヘルスチェックを厳しくした>

 

            ■■■ 上海の旅に参加して■■

  <上海の旅レポートその2>
 SIA会員4Leaves ! が習い覚えた怪しげな中国語を駆使して、上海旅行をしてきました。
といっても現地ガイドもキャビキャビギャルのカメラマンも、日本語が上手で、我々の中国語は
役立たず。ニツ、キュツ。パツ(29、800円)で往復JAL全食事付き、観光付き、3泊4日と
すべて4leaves向きです。あまりの安さに、もしかしたら何か不具合があるのでは、、、、
と心配しましたが、食事も美味しかったし、ホテルもまあまあ,観光も楽しかったし,
お土産も買ったし。しかし、国際観光客ではなく、中国人の観光客が多かったのにはビックリ。
ガイドさんはどこもすべて赤い旗を立てて先頭を行くので,人混みの中うっかりすると
中国語の真っ只中に迷い込んでしまいます。着いて歩くのに必死でした。
中国の新幹線に乗りましたけれど、日本よりスピードが緩やか、140、50キロでした。
それより、日本の皆さんより一足お先にリニアモーターカーにも乗りました。たった8分でしたが,
こちらは301キロ出ていました。のぞみは最高何キロですか〜?
上海の広い大地を走るので、スピード感はいまいちで余り自覚症状なしでした。
来年は上海万博とやらで、突貫工事?で町中を整備中。
昔のヨーロッパ調のすてきな建物も残っていましたが,高層ビルも益々増えていました。
黄浦江の両岸のイルミネーションのスケールの大きさには、乗船時の骨折しそうなラッシュも
わすれて、思わず釘付けでした。
寒山寺で1名迷子になり、出家しちゃったのかと残る3名は命の縮む思いでしたが、
結局SIAを捨てるわけにはいかないと戻ってきてくれました。めでたし、めでたし。
                                        < M.M 記  >

会員 K,Tさんからのおたよりです。
皆様ごぶさたしています。 K,T,です。上海たより遅くなりましたが送ります。
他の方からも楽しい報告が届くと思います。
          <写真クリックで拡大表示されます>

Nさんが迷子になった場所

蘇州、世界文化遺産、留園の獅子林

上海、黄浦港の Night Cruising

4月末、SIAの仲間4人で杭州、蘇州、上海の旅に参加した。
仲間達とは、中国語を学び始めて10年近くなるが、中国にはまだ行ったことのないM子、
海外旅行は全く初めてのN子、数年前に天津師範大学で日本語を教えていたA子、
そして中国は4回目の私K子。
中国には何時行っても何処へ行っても人の多さと賑やかさに驚く。経済が豊かになれば
日本の10倍以上の人口を持つ中国、人々が観光地に集まるのは当然である。

観光2日目にトラブルが発生した。蘇州の寒山寺で海外旅行初めてのN子がはぐれてしまった。
どうしよう!? 間もなく彼女から3人にメールが届き、すぐに対処したA子。人混みの中を
走り回った添乗員助手のカメラマン。無事出会った時にはほっとした。

彼女は中国張継の「楓橋夜泊」日本でも有名な“月落ち烏啼いて霜天に満つ”の詩を
流暢な日本語で話している中国人ガイドの説明に聴きほれていたとか・・。
あの時は携帯電話の有難さをつくづく感じた。

上海のナイトクルージングでは600人乗りの船に6000人ほどの人が待っていて,
我先にと乗り込む人々に大声を出して阻止する人。大勢集まると声はますます大きくなり、
少々くたびれる。しかし友好的な人も沢山いる。日本人に興味があり色々知りたいらしい。

一番知りたいのは、日本人の平均収入だったが・・。又、上海の夜景は格別である。日本に
留学していた湯暁さんに案内してもらい上海の夜を満喫した。たった3泊4日のツアーで忙しく
廻ったが廉価にもかかわらず往復とも日航機で、新幹線とリニアモーターカーの指定席に乗り、
ホテルは4つ星、食事も毎回それなりに美味しかった。価格は2年前の4分の1だそうだ。
結局夜のオプション参加や土産店へ3軒ほど案内され、買い物好きの日本人がお金を使ってくれる・・
そんなことかな?と思った。  なにはともあれ10年間勉強したM子は多いに中国語を駆使し
満足したようで、4人共それぞれ役割分担が自然に出来、満足した旅であった。
                            < K・T 記>
 
          ■■■ M.K.さんのオージーカーボーイ体験 ■■■


<体験ーその7、2009.5.18>

最後にビックリの打ち明け話をしましょう。添付の写真は、私がステイした牧場の共同経営者、スーザンとキャスリンの母子です。そして実は、彼女達はlesbianの関係なのです。カウガールとして長年働いている時に知り合いパートナーとなったそうです。お互いに、男は要らないけど子供は欲しいということで、インターネットで精子提供者を求め最終面接までして同時に受精、男児2人を同時期に出産。後継者のチビ達は腕白そのもの、馬も好きだし裸足、フリチンで走り回っています。
彼女達、世間で言うレズ的雰囲気は全く無く、姉妹みたいです。握手するのさえ見た事有りません。寝室は同じですが‥・・
とにかく二人とも逞しい!男と同じ荒仕事をやり続けてるのです。勿論銃も使えるし所持しています。でも、二人とも優しいマミーなのです。来月あたりポニーを買う予定で、子供用の小さな鞍を特注してました。
生きていると面白いことに出会えます。精進しましょうね、みなさん。




<体験ーその6、2009.5.18>

今日は最後のお勤めでブッシュに薪取りに行きました。お爺さんは山に‥なんてモンじゃなくて四駆でトレーラー引いて行きます。ユーカリの枯れ木をチェーンソーで切断して斧で割るのですが、ユーカリは滅茶苦茶堅くて日本のナラやクヌギの比じゃありません。チェーンソーは20分毎に目立てが必要だし、斧も何度も同じ個所にぶち込まないと割れない。その代わりとても火持ちがよく寝る前に太いのを入れておくと朝まで充分燃えています。現在、日向はTシャツでいいくらいですが、家の中は一日中ストーブの火を絶やさずに居ます。
実は今日、カンガルーを銃で撃ちに行くはずだっのですが、持ち主が風邪で調子が悪くて次回持ち込しになりました。鬼が笑っても来年です。
明日から町の方へ移動するので牧場生活とはお別れです。
今日も夕日がきれいでした。
 
こりないカウボーイ










 <体験ーその5、2009.5.3>

近くの町(といっても100キロはある)で開かれているカウボーイ祭りに皆で行きました。アメリカ映画やテレビで見るのと全く同じ、出場者以外の見物人たちもみんなジーンズにカウボーイハットかぶって、会場にはカントリーミュージックが流れていて。
映画と違うのは、バーベキューみたいな匂いが漂ってることですかね。
牛追いだとか、裸馬乗り、障害物競走などいろいろあったけど感心したのは小中学くらいの子供達が自在に馬を操って大人たちと同じ競技に参加してたこと。
小さい子はポニーにまたがって参加してた。この家も夏までには子供達のためにポニーを買うそうです。まだ2歳半なのにね。10歳くらいになれば充分牧場の戦力に成るそうです。自分達は町育ちだったから、とても競技参加ほどの技術はないとのことで後継者に夢を託してるのでしょうね。僕は2,3時間で見飽きたけど彼らは久しぶりに会った友人達と延々とおしゃべりしていて日が暮れても帰らないんで参りました。他の州からも参加してくる名物フェスティバルだそうで会場にはトレーラーハウスの列が並んでた。ド田舎暮らしの牧場人たちだから、人恋しくて帰らないんでしょうね。結局会場に8時間近くいるお付き合いでヒジョーに疲れました。
  <体験ーその4、2009.5.2>

今日は朝一から隣人牧場主の頼みとかで、コーチと2人で牛追いの助っ人をやりました。隣人は普段は一人でやってるので、牛集めなど複数人が要る時に助っ人を頼んでくるのだとのこと。ところで、隣といったって馬で歩いて片道1時間半、その後の牛集めが3時間、一段落の昼食まで4時間以上乗りっぱなしなんだから。
その上、いつもはおとなしい僕の馬が250頭の牛に興奮したのか結構暴れた。歩けって命令してもすぐ走り出す。走ると腰に負担が掛かる、尻も痛い。
毎日の特訓であちこち痛むんだけど、侍ジャパンは頑張るしかない。何度も落ちるかなと冷や汗をかいたけどなんとか無事任務を終えました。
ランチは、相手の作業小屋でのステーキとビール。メチャ喉が渇いてたからビールの美味かったこと!
素人なのによくやった!感動した!と、同行のコーチがパートナーのスーザンに言ったそうで一応は面目を保ったという次第でした。助け合いのお礼は、クーラーボックス一杯のラム肉。今朝隣人が絞めて捌いたという新鮮な物です。3キロくらいは俺の稼ぎかな、なーんてね。
必死で、とても写真撮ってるゆとりはありませんでした。もう少し上達すれば楽に出来るのに、悔しいから来年もやるぞー!なんてね。








<体験ーその3>

番外編を送ります。

これはアンナ(蘭)23歳

















ジョーダン(豪)18歳

















グリティ(独)24歳

















キア(豪)19歳











これもグリティ


実はスタッフに20くらいな素敵なのがいたんだけど残念ながらアップがありません。 みんなタフで子牛倒しなんかも挑戦しました。一見普通の女の子なんだけど、こんなスクールにお金払って来るんだからちょっと変わり者連中でしょうね。ちなみに料金は5日間で約5万円、全食事飲み物付きですがアルコールは各自持参です。








<体験ーその2>

訓練を兼ねての遠乗りの後、ピクニックランチなんてのもありました。































晩秋なのですが野アザミやタンポポなども咲いてました。前者は俗称ブッシュトイレットペーパーと呼ばれる草で、なるほど表面がフェルトみたいな肌触りですが試す機会がなくて残念。






























毎夕焚き火を囲んでのディナーはムードタップリ。
今回の参加者は私を含めて10名。 オージーネイティブの他アメリカ、イギリス、ドイツ、オランダ、エジプトと国際色豊かな顔ぶれでしたが、みんな英語ペラペラでカタコトの私はいささか情けない思いでした。行程終了後には終了証明書と各牧場など就職先リストガイドを受けとりましたが、中には本気で就活中の若者もいましたよ。かなりハードでしたが非常に楽しく充実した5日間の経験でした。今はまた牧場生活に戻り、手伝いと乗馬の練習をしています。
 








 <体験-その1、2009.4.20>

スクールでは色々なことを実習しました。馬で羊を柵の中に集める
















捕まえて座らせるのは毛を刈るため



















投げ縄



















蹄削り









子牛を引きずり倒して耳タグを付けるのはかなりの荒業で肋骨でも折っては敵わないので歳を考えて辞退しました。気温15度くらいなのに馬と一緒に池で泳ぐ訓練もやはり遠慮しときました。他にも牧場の柵作りとか、雑草を見分けて除去するとか色々体験しました。羊の喉を掻き切って皮を剥ぎ、肉にさばく一部始終も見学しましたが、最後はシチューとバーベキューになって我々の胃袋に納まった次第でした。
■■■ 中国を自転車で走る ■■■  
                        会員M.Yさん投稿

SIAニュースで紹介された長江山峡自転車旅行の会主催、三国志、呉の国を巡る旅(荊州、赤壁を往く、宜昌>岳陽、長沙)32029日に参加してきました.
320945分成田を発ち一路広州へ、国内線に乗り換え宜昌へ。21日世界最大の山峡ダムを見学後、三国志ゆかりの関陵、玉泉寺、ホテルに戻り夕食後自転車組立。

22
630分起床7時朝食、8時いよいよ次の目的地の技江までの自転車の旅が始まった。サイクリング途中、行けども、行けども見渡す限り菜の花畑、この時期、北京まで続いているとか、気が遠くなりそうな菜の花畑、桜も桃も咲いていた。




























23日、70km走行、途中見学あり。
24日荊州から一路仙桃(せんとう)へ朝ホテル前にて写真撮影後、バスの誘導に従い市内を抜け、右手に長江大橋を見ながら早速と走りだす、長江に橋が掛けられたことにより、これまでの船による物流から車による物流へ全てが飛躍的に拡大し、人の移動も容易になったそうだ。雨の中ガッパを着て47km走行中後輪がパンク。サポートバスに収容され、ホテル到着後パンク直した。25日この日は長江沿いを走り雨上がりのためモヤが発生し、道路も濡れて走りづらい、途中の休憩場所は長江沿いの公園、そこには大人のための健康増進器具が備えられていました、思い思いに自分にあった器具を使い運動をしていました。この日コスは、初めて参加した私にとつて半端な距離ではなく、トタルで123km走行、午前2回休憩午後3回休憩後の最後の10km走行はとても辛いものでした。自転車を漕ぐにも足があがらす歩いている速度と変わらぬ速度、途中体力がもたず露天で売っているバナナを食べたい欲求にかられましたが、終点で待っている仲間の事を、力がでません、その時遅い私を気遣い仲間が自転車で迎えに来てくれ、あと少しと激励され、ペダルを踏む力もでて来ました。やっと終点到着、123km(gpsで計測)バンザイ、バンザイ、バンザイ、完走しました初めて参加の私にもできました、自転車をバスに積み込み仙桃市内のホテルへ、ホテルまでのバスの中で仲間が途中の露天で買ってくれていた、バナナを食べた時の美味しかったこと!子供頃初めて食べたバナナの味?を思い出しました。

26日、道路工事のため悪路を70km走行、途中見学。

27日、金城武主演でお馴染みの、映画レッドクリフの赤壁対戦の主戦場へ。渡し船で長江を渡り、赤壁摩崖石刻見学、当時の戦いがどのような戦いであったか思いにふけりながら、50km走行、完走しました。ホテルに戻り自転車解体、これで自転車の旅は終わり。

28日湖南省博物館にて約2100年前?の女性のミイラや副葬品、埋葬された棺など完全な形で保存されており、当時の寿命は30歳、ミイラの女性は50歳、頭にはカツラがあり着用していたそうだ。それにしても裾野の広い国。墳墓の周りは炭や漆喰、石灰を使い完全な形のミイラを残したのだそうです!

それにしてもこの旅行、中国の歴史、中華料理、酒、自転車、全てに満足させていただいた旅行でした。交通マナーは決していいとはいえないが、郷にいれば郷に従えの例え通り、臨機応変に対応し、自転車の準備やサイクリングの知識のないまま参加しました。自分なりに楽しく走れた自転車旅行でした。来年の自転車旅行は中間の移動に、寝台車を利用する旅行にしたいとか!

コースでみた交通事情
サイクリング時に遭遇したもの、バイクのうしろに10mくらいの竹を引きづって走っていたり、ニワトリやカモなどを縛り、バイクのハンドルに吊り下げて走っていたり、長い橋を走行中、水牛をノンビリ水浴びさせている風景に出くわし、ペダルを漕ぐ足を休め一息。土手に菜の花が咲き誇っていました。なんと長閑な風景だろう!まるで一枚の絵そのものでした。重量制限があるのかなと思える位、たくさんの荷物積んだ車に出会いましたが、不思議と交通事故に出会う機会が少なかった、今回初めて自転車ツアーに参加しましたが、道中すれ違う車からの応援メッセージ?や伴走して走る子供、私達に話し掛け追い越して走り去る地元の自転車愛好家など、休憩時には地元の人が何か話し掛けるが、わからず悔しい思いをする。中国チャリンコ旅と呼ぶにはあまりに壮大な旅でした。400キロに及ぶ走行でした。それにしてもすごい仲間との旅。「お化け」と呼びたいほどすごい仲間!80歳を超える長老は,私より早く風のように走って無事故完走。60歳を超えたすてきなおばちゃん(失礼、すてきな女性)は、軽く高性能の自転車を持ち込んで,すいすい抜いていく。そしてバテ気味の私を尻目に完走。最後尾を走るリーダーも60歳過ぎ。ビデオをまわしながら走り続けて,軽く完走!いやはや。すごい。でも皆さんそれぞれにマイペース、マイスタイル。自転車走は無理という3姉妹さんはバスで先回りして地域地域で交流を楽しまれていた。マラソンで走りたい方は,途中自転車をバスに預けて走る。

28日はゆっくり見学、食を楽しみ,文化を楽しみ,29日成田へ。ただいま!

地図もごらんください。

とにかく中国に興味がある方なら参加する価値ありです。 
 


 相模原市国際交流協会(SIA)    Sagamihara International Association


                                                              
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