パラオ情報


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パラオプロジェクトについて ◆◆◆◆◆   

                                                          担当理事 小林正明

日本から真南に約3000キロ、南海の楽園として知られるパラオ共和国は1994
に独立した若い国です。300余りの美しい島々から成り人口は約1万7千人、日本と
縁が深く70歳以上のお年寄りは大体日本語が分ります。その理由は、第一次世界大
戦後からの
25年間、パラオは国際連盟のもとで日本の委任統治領となり、言葉や文
化の影響を受けてきたからです。
Bentou(弁当)baikin(ばい菌)himitsu(秘密)
koibito(恋人)などパラオ語になり今も使われている日本語が500語以上あると
言われています。第二次世界大戦戦後50年に及んだ米国統治で、言葉も暮らしもア
メリカスタイルが定着した現在ですが、独立後の経済的自立には日本が一番期待され
ており、
ODAなど資金援助額も米国と並んでトップクラスなのです。またパラオの
美しい海はダイバーのメッカとも言われ、日本人を中心とする観光収入は同国の大き
な財源となっています。

当協会との関係は、故大野力前理事長が旧友の依頼により、2000年に設立された
NPO法人ジャパンパラオ会」の理事を引き受けたことから始まりました。同会は、
「パラオ共和国ペリリュー島を拠点に、その地域の貴重な自然を護り、島民の経済自
立に必要な事業の開発と推進に協力し、その中で会員メンバーが長期滞在保養し住民
との交流親睦を深め、新しい生きがいと健康作りの場の実現を目指す。」ことを目的
としているシルバーボランティアグループで、年
1回のパラオツアー実施を目標の一
つにしています。当協会はパラオ会との共催の形で2000年夏からパラオツアーに参
加し、大野さんと共に多くの会員が素晴らしい出会いと触れ合いの旅を楽しみました。
満天の星空の下、遠くにリーフの潮騒を聞きながら椰子ジュース割り、マングローブ
蟹に舌鼓を打つ、至福の経験でありました。

 そして今年の1月には、第3回目のパラオツアーを参加者7名で実施しました。今回
のツアーには、パラオ政府に提案中の深層水事業、ゴミ処理事業などのための事前調
査、そしてペリリュー島の小学校と役場にパソコン、ピアニカを贈呈するという目的
があり、現地会員の協力の元に無事終了しました。この件については、当協会の会報
「国際交流ニュース」
208号に詳細が記載されています。尚、パラオツアーは来年以
降も引き続き行う予定です。奮ってご参加下さい。
                                 以上             

 

◆◆◆◆◆パラオあれこれ・・・ 小林 正明 ◆◆◆◆◆

@戦跡の島

南海の楽園、ダイバーのメッカとして知られるパラオは、太平洋戦争の激戦地でした。
私が所属する「NPO
日本パラオ協会」が活動の基地としているペリリュー島はその
中心地であり、面積約13kuの小さな島中に
沢山の戦跡が残されています。
道路端に放置されてい
る日本軍の95式戦車、米軍の水陸両用シャーマン型
戦車。いずれも壊れたまま赤錆ていますが、米軍戦車
は日本戦車の5倍もの大きさ
があり、戦力の違いを象
徴しているようで悲しい気持になってきます。壊れた砲台、
爆弾の穴だらけのコンクリート製日本軍
司令部跡、ジャングルの中ではトーチカも
たくさん見ました。そのいくつかは、旅行ガイドブックに写真紹介
されていますが、
現場には説明看板や柵など何も無く
ただ放置されている状態です。

この1月に訪れた時、現地で民宿を経営している中川さんが「つい最近、米軍の飛行機
の残骸を見つけたから
見に行きませんか。すぐ近くですから。」と案内してくれました。
(中川さんについては稿を改めて紹介します。)
車で10分ほど珊瑚砂の白い道を走った後、
現地人の作業小屋から流れてくるラジカセのロックを聞きながら脇
道を5分ほど歩いてから
ジャングルに分け入ると、有り
ました。まず千切れた飛行機の片翼、少し離れてエンジン、
胴体、もう片方の羽。胴体には星のマークがありま
す。「日本軍の高射砲にやられたんで
しょう。」と中川
さん。なにか多少胸がすっとしたというのが、元軍国少年の偽らざる気持
でした。いけない事とは思いつつも。

昭和19年9月、米第一海兵師団50隻の艦隊が島の沖に現れました。「アイシャル
リターン!」で有名なマ
ッカーサー元帥のフィリピン奪回作戦のための前進基地確保が
目的でした。フィリピンはこの島から東に約千q
と近く、飛行場もあるこの島をぜひ取り
たかったのです。
ペリリュー島の玉砕については、戦後いろいろ日本でも出版されまし
たが、パラオで販売されている米国製観光案
内書の戦記には、「ペリリュー島の占領は、
4日間が予定
されていた。ところが75日もかかった。なぜならこの島は、死ぬまで戦うと
覚悟を決めた日本兵で満ちていたか
らである。米軍は太平洋の戦いで最大の苦戦を
強いられ、両軍共に最大級の犠牲者を出した。」と記されています。
米国側の記録に
よると、米軍の死者行方不明者約千百
人、日本軍の死者約一万人とされています。

パラオの素晴らしい海でダイビングを楽しみつつも、この事実を忘れてはいけないと
自戒する私であります。
次回は、柔らかいお話をしようと思います。お楽しみに。

 

A三人のマユミさん

パラオには、日本式の名前を持つ人が沢山居ます。前大統領のナカムラクニオ
氏は日系人ですが、純粋のパラオ人でも
日本人にあやかって日本名を付けた人が
大勢居るそうです。アケミ、トヨミ、ハルコ、タロウ、ジロウ、サブロウなど名前は勿論
のこと、エンドウ、カトウ、キンジョウなど日本姓をもらった例も多くあります。

傑作なのは、モガミサン、イチカワサン、など敬称まで名前に取り込んでしまった
り、オオマサ、コマサ、ノギサン(乃木大将)など有名人からの頂きや、アキタヤなんて
店の屋号を名前にした例もあるそうです。私達NPOパラオ協会の拠点であるペリ
リュー島にも、私の知る範囲で3人のマユミさんという女性が居ます。

 まずは、マユミ・インというモーテルや、島唯一の雑貨屋兼食堂を経営している事
業家のマユミさん。真っ黒い顔、堂々たるビア樽体型の六十代とおぼしき女丈夫
です。1999年に私達SIAの一行がパラオ訪問をした折りには、椰子の実を
原料にした島伝統の手作り菓子を宿舎に届けてくれました。現地名は「ブー」という
そうですが、1個がウヅラの卵くらいでモチモチッとした歯ざわりのとても甘い素朴な
味わいでした。それというのも、彼女の甥に当たるショーウン君という少年が、文化
外国語専門学校の相模大野宿舎に在住していて、今回同行した大野和子さんに
叔母のマユミさん宛の手紙や写真を委託したという縁からでした。今年私が行った時、
セスナ機の搭乗手続きをしたのも彼女
の店でした。私の荷物を一睨みして、一つは
タダ、もう一つは10$追加と即時判定。島の実力者の貫禄でした。
 

 次のマユミさんは、現地で民宿を経営している中川さんの奥さんで、やはり堂々とし
た体型のパラオ婦人です。昨年訪問の際には滞在してお世話になりましたが、チャ
ーハンやうどん、野菜の煮物など日本食も上手に作ってくれました。暇な日中には、
木陰で椰子の葉の手提げ袋を編んでいました。緑の葉っぱを細く裂いて鮮やかな手
つきでどんどん編み進みます。私がビールを飲んでハンモックでウトウトしているうちに、
何個か出来上がって日向に干されていました。彼女は伝統パラオダンスのリーダーで

もあり、昨年はグアムでも公演したと中川さんがちょっぴり自慢げに教えてくれま
した。彼女はまた、私達全員に幸運をもたらすというツルツルピカピカに磨き上
げた宝貝をプレゼントしてくれました。

 三番目のマユミさんは、ストーリーボード・ビーチ・リゾートというロッジスタイルの
宿を経営する現地人の日本人奥様です。私はまだお目にかかっていませんが、中川
さんの話によると、とても素敵な人柄の美人だそうです。昨年中川さん宅に滞在
した折り、日本に国際電話をかけようとしたのですがどうしても繋がりません。中
川さんは日本からの電話を取るだけで、自分からかけたことはないので分らない
から、このマユミさんに聞いてみたらどうかと彼女の電話を教えてくれたのです。彼女
に教わった通りにしてもやはり繋がりません。再度相談したところ彼女曰く「中川さ
の電話は、国際通話の契約をしてないのではないですか?」。実はその通りでした。
次回にはぜひお会いしたいと思っています。

人口約七百人のペリリュー島には、まだ何人かのマユミさんが居るかも知れませんね。

 

B女系制社会?

 パラオは母系相続社会であり、土地や家など財産は女が相続し男には権利が無
い、と聞いていました。その由縁は、パラオの女性は早熟であり昔から開放的で
あったため、父無し児を養育するための合理的制度なのだというのです。なるほ
ど、と納得していました。事実、NPO日本パラオ協会の現地協力メンバーであ
る日経パラオ人の杉山さんの案内でペリリュー島巡りをした時、旧日本軍の飛行
場で今はセスナ定期便の発着地となっている2000メートル滑走路のある広大
な原っぱで彼の曰く「ここも女房の土地です。向こうのビーチもみんな女房の土
地です。」。今パラオ協会が国家事業として提案している深層水プロジェクトの
予定候補地もやはり杉山夫人の土地なのです。 漠然と納得しつつもいくつか疑
問のあった女系相続について、この稿を書くに当たり在日パラオ大使館勤務のW
嬢に質問メールを送りました。(今年からダイビングも始めたというチャーミン
グ若いな女性です。)

@     女系相続は、法的にも事実なのか?女の子が居ない場合はどうなるのか?
男の子に?親戚に?それとも?         

A     女系相続制度の由縁は、本当にちまたで言われているように婚外子対策なのか?

以下彼女の回答の概略です。

@      「現在、相続権は日本同様遺言などにより父の望んだ通りになります。遺言が
無い場合、子供が上から順に相続権が認められ、続いて養子に与えられます。妻
には全く権利が与えられません。この相続権認定は、何人かの一族の女性年配者
(オウルート)の話し合いによって決まり、該当者が居ない場合は保留になるこ
ともあります。保留になった地位は、そのオウルートの中で一番の権力者(女酋
長と一般に言う)が適格者が見つかるまで代行します。国家の介入は全くありま
せん。」

A      「パラオは昔沢山の王国からなっており部族間の争いが絶えなかったので、村
を留守にする事が多い男性に代わって女性が重要な決定事を任され、財産を守っ
たと聞いております。そのため、現在も政治に関する問題は男性達が話し合いを
し、冠婚葬祭など「家」に関係する事は女性が担当しています。一応男性を立て
るため、男達も話し合いを持ちますが、その後結果を報告された女性達がそれを
気に入らなかった場合、どんなに長い真剣な話し合いが持たれたとしても、女性
の一言で如何様にも変ってしまうのだそうです。」

 女系社会の意義を私は納得しました。

中東ををはじめ世界各地で戦争、殺し合いが続いている今、家だけではなく政治
面でも頼もしい女性酋長が世界中に輩出して欲しいと私は心から願うのであります。

 

C 中川さんとジロー君

連載@「戦跡の島」で登場した民宿経営者、中川束さんとその養子ジロー君を
紹介しましょう。中川さんは日本統治下のペリリュー島で育ち、戦時中は予科練
に志願、三重航空隊で訓練中に終戦を迎えました。戦後は日本で過ごしましたが
夫人の没後、少年時代を過ごしたペリリューへ移住し、慰霊訪問団を主対象とし
た民宿と戦跡案内業を始めました。

民宿のロビーの壁には、旧日本軍の軍艦や戦闘機の古びた写真が名前入りで一
面に貼られています。その中でも目立つのが、自分自身の若き日の凛々しい軍服
姿の肖像です。軍艦旗やゼロ戦の模型も飾られています。特攻隊志願の夢叶わず
、今この島で民宿を営む中川さんの誇りとノスタルジーの入り交ざった心境を物
語っているようです。ペリリュー戦に関する解説の第一人者を自負し、現地人も
知らない戦跡まで自分の庭のように案内出来る彼ですが、年毎に慰霊訪問団の数
も減少し、民宿設備の手入れもままならない様子にいささか心が痛みます。

私達が行く時には、現地のNPO協力者杉山さんが所有する「愛心ロッジ」を
利用するのが通例ですが、一度都合がつかず、中川民宿のお世話になったことが
あります。彼自ら釣ってきたカツオやマングローブ蟹、自分の畑で栽培する野菜
などをパラオ人奥さんのマユミさんと一緒に料理してくれました。美味だったの
は言うまでも有りません。そして、いつもながら我々のん兵衛を喜ばせてくれる
椰子割のため、十メートルを越える椰子の木にスルスルと登り実を蹴落としてく
れたのが養子のジロー君です。彼は目のクリッとした、いかにも腕白そうな現地
の少年で、日本語ペラペラです。事の経緯を中川さんに聞いてみると、マユミさ
んの妹の娘が未婚の母になったのだが、育てようとしないので、子供の居ない中
川さん夫婦が引き取る事にしたのだそうな。ジロー君は養父のことを「ナカガワ
サン」と読んで尊敬し、習い憶えた漁の腕も師を凌ぐほどだと中川さんは目を細
めます。しかし今5年生のジロー君、養父の影響か学校の英語の授業をないがし
ろにしたため進級出来ず、2回目の5年生をやっているんだそうです。彼は、島
の伝統文化の「戦士の踊りを」仲間と一緒に習っており、私達ツアー団が訪れる
度に披露してくれます。全員裸で、なかなかのパフォーマンスですよ。次回ツア
ーでもぜひ見せてもらうつもりです。

 

D杉山一族と馬場さん

今年のパラオツアーも出発間近。この文を皆さんがお読みになる頃、私達は南
十字星の下で椰子ジュース割を楽しんでいる筈です。今回は現地でいろいろお世
話になる人達をご紹介しましょう。

戦前、パラオが日本の国連委任統治領だった時、酋長の娘と結婚した杉山隼人
という男性が居ました。その長男の信哉さんが私達の現地世話人なのです。連載
B「女系制社会」でも触れましたが、信哉さんの奥さんはペリリュー島の大地主
で飛行場の土地ばかりかジャングルやビーチも沢山所有しています。その一部を
NPO日本パラオ協会の理事長と協力者が借用してコテージを建設し「愛心の家」
と名づけました。そこがペリリュー島における私達の滞在基地です。電気、水道、
炊事設備、温水シャワーも完備しています。杉山さんはコロール島在住で
ロッジは平常は閉鎖状態、利用者のある時だけのオープンです。信哉さんと息子、
その奥さん達などが私達と一緒にペリリューに渡り、滞在中の食事の世話をして
くれるのです。豪華とはいえませんが、マングローブ蟹、取りたてのカツオの刺
し身、チキンの照焼きなどを、椰子割を飲みながらリーフの潮騒を聞きつつ平ら
げるのは普通の旅とは一味違うパラダイス気分といえるでしょう。杉山さんはま
た、15人乗りくらいの高速ボートも持っており、島への移動やマリンレジャー
などの面倒も見てもらう予定です。

次はダイビングでお世話になる馬場高志さん。2000年に、ペリリューで
は日本人として初めてのダイビングサービスを徒手空拳で始めました。証券会社
のサラリーマンを脱サラし世界各国を放浪の後、パラオに住み着いたという好青
年です。3年前初めて会った時には、まだ自前のボートがなくレンタルで「小林
さん、ボート代投資しませんか?500万円で買えるんですがね。」なんて言って
いましたが、1年後に再会した時にはもうちゃんと購入してました。常時2〜
3人のスタッフを抱えたなかなかの事業家で、この2月にはレストランもオープ
ンするそうです。彼はまたNPO日本パラオ協会のペリリュー支部代表も務めて
おり、昨年州役場にパソコンを寄贈した時には、知事との段取り、その後の指導
などみんな引き受けてもらいました。

一昨年初めて一緒に潜った時、ナイスバディのアユさんという女性インストラク
ターが居たのですが、去年再会したした時には馬場夫人となり目立つお腹を抱え
ていました。そして間もなく無事女の子をご出産。かくしてペリリューで生れた
初めての日本人、ももかちゃんは這い這いから立っちへとすくすく育っているの
です。その様子は馬場さんのホームページの「ももちゃん日記」に紹介されてい
ます。微笑ましい親馬鹿ぶりですね。

今回の旅では、私の知人関係で7名がダイビングをしますが全員60代です。
パラオに行くなら潜らにゃソンソン♪
現地で簡単に初級ライセンスを取る事も出来るし、体験ダイビングというコース
も有ります。とにかくパラオの海は素晴らしいですよ。八木理事長曰く「パラオ
に一回行くと3年長生き出来る。」

 

E海洋学者倉田洋二さん

パラオ在住の同氏は、現地の人達にも私達にも「倉田先生」と呼ばれて尊敬さ
れている方で、ツアーの際には何時もメンバーに紹介し食事を共にしていろいろ
お話を聞くことにしています。今年1月訪問の際レストランで席に着いたところ
「倉田先生の関係の方だから」ということでシャコ貝の一品が全員にサービスさ
れ嬉しい驚きでした。専門は鰐や蜥蜴、亀など海洋爬虫類だそうですが、魚、鳥
、植物、動物、歴史、文化など分野を問わず博識で「パラオに関して分からない
ことがあれば倉田先生に聞く。」 のが私達の常識となっています。JICAの
のスタッフやツアーガイドなど現地で働く若者たちにも同氏の教え子が沢山居て
あちこちで出会います。今回訪問したTさんがお気に入りのカヤックツアーガイ
ドのハンサムボーイもその一人でした。

倉田さんに初めて会ったのは2000年の第一回ツアーの時です。故大野前理
事長達とペリリュー島に同行し滞在した折、知人の漁師が吊り上げたという1メ
ートル余もある赤い美しい魚を持参してくれました。通常は300m〜400mの
深い海に住み、パラオの漁師の技術では滅多に釣れないそうなんですが、たまた
ま浮上しらしいとのこと。この魚、日本では尾長鯛と呼ばれ、スーパーはおろか
魚屋にも出回らず、高級料亭でしか口に出来ない高級魚だとのこと。勿論私達一
同みんな初体験です。ザク切りにした刺身の美味だったこと!シコシコした歯ざ
わり、ほんのりと甘みのある味わい。南海の魚は概して大味で旨くないのに、こ
れは別物の絶品でした。満天の星空の下焼酎の椰子ジュース割を飲みながら先生
の人生についても聞かせて頂きました。

倉田さんは昭和元年生まれ今年77歳、第2次大戦前に縁あってパラオに渡り、
水産試験所で海洋生物研究の道に入りました。19歳の時現地徴集され、パラオ
最南端のアンガウル島に配属されて玉砕の修羅場を経験したのです。なんとか生
残った彼は、米軍の水ポリタンクを盗みそれを空にして浮き袋に使い、2名の仲
間と共に未だ陥落していないペリリューへと泳ぎ出しました。わずか10キロ程
の距離ですが、潮の流れが速く現在のダイバーでも要注意の海域です。結果、彼
は成功せず米軍の捕虜となり戦後無事帰国したのですが幸運としか言えないでし
ょう。彼が目指したペリリュー島はその後玉砕をも許されず、2ヶ月以上悲惨な
闘いを続けることになったのですから。

武器弾薬、薬品、食料など全ての補給を断たれ、ただ本土決戦に向けての士気高
揚のためだけに戦い続けることを強いられた島の悲劇は、NHKの番組でも詳し
く紹介されています。終戦後倉田さんは水産庁で研究員として定年まで勤務し、
夫人に先立たれた1年後の平成8年に再びパラオに戻りました。長年蓄積した海
洋学をパラオ共和国の人々のため役立てると共に、若くして散った戦友達の墓守
となるためだと聞きました。この春には先生が企画編集に参加し、自らも多面に
わたり執筆している大著「パラオ共和国」が出版されます。A4版600頁、歴史、
沿革、未来の展望などパラオの全てを収録した日本初の貴重な資料です。私達も
楽しみにこの本を待っています。

 

F    海と私とダイビング

私が初めて泳いだ海は、北朝鮮の黄海です。日本支配下だった昭和19年頃、
家族で海水浴に行き、父の手に支えられて手足をバタバタ動かしているうちに、
なんとか2mくらいは泳げるようになりました。戦後日本に引き揚げてからは高
知の室戸で育ったので、夏は毎日海や川で魚を追いかけ貝を獲っては栄養補給の
足しにしてました。室戸の海はそれは豊かで、色とりどりの珊瑚の間を多種多様
な魚の群れが回遊する様子は子供心にも感動的な美しさでした。

長じて東京で就職してからも夏は家族と伊豆で潜り、仕事で南の国へ行く折に
はバッグの中にマスクとシュノーケルを忍ばせました。グアム、サイパン、ハワ
イetc.各地で撮影の仕事の合間に潜りましたが室戸に比べると今ひとつだっ
たのです。そうこうするうちに定年を迎えた5年前、縁あってNPO日本パラオ
協会のメンバーとなり、初めてのパラオツアーに参加することになったのです。

パラオの海が最高であることは、海に関心のある人々にとって周知の事実です。
私はそれまで重機材は使わない素潜りでしたが、パラオを満喫するために、急遽
ライセンス取得に挑戦。3ヶ月間の特訓で初級からレスキューダイバーまで4階
級のライセンスを獲得して旅に臨んだのです。300以上といわれる緑の小島の
間をスピードボートで縫って到着したダイビングスポットは期待通り素晴らしい
ものでした。渦を巻いてきらきら光るバラクーダやギンガメアジの大群。人見知
りせず至近距離を行ったり来たりする1m近くのナポレオンフィッシュ。猛スピ
ードで通過するマグロや悠然と回遊するサメの仲間たち‥。

パラオのダイビングは、流れの速いリーフ沿いの深淵を壁沿いに流れに合わせ
て進む「ドリフトダイブ」という潜り方が基本で、予定した浮上ポイントでボー
トに拾ってもらいます。流れはかなり速く、ベテランでも遡って進むのは困難な
程です。ガイドの指示に従い、錨ロープを握って予定深度まで潜り、そこから流
れに乗ります。いいポイントでは岩を掴んで停止し、フィッシュウオッチングを
楽しんだり写真を撮ったりするのですが、経験の浅い私は必死で岩にしがみつき
辺りの景観に目を凝らしたのでした。

ダイビング雑誌のアンケートでパラオの海はいつもトップ人気です。昨年のあ
る調査では、行きたい国の1位、潜りたいスポットの1位もパラオのブルーコー
ナーでした。ブルーホール、ジャーマンチャンネルを含めベストテンの上位を占
めているのも納得できます。

ダイビング料金は、30分程度のボートダイビング2回、昼食飲みもの付きで
1人100ドル前後が相場でほぼ日本と同程度です。ダイビングショップは日本
人ダイバーターゲットが主体で10数軒ありますが、いささか過当競争気味だと
現地在住の海洋学者倉田先生は言っておられました。初心者向けの体験ダイビン
グは機材費など一切含めて150ドル前後。インストラクターが付きっ切りでケ
アしてくれるので安心です。1度体験するとはまってしまうことは、今年のツア
ーに参加した高嶋さんがいい例です。

新しい世界への誘惑。ぜひあなたも。

 

G    学校と子供たち 

ペリリュー島の小学校には、JICAの青年海外協力隊員として派遣された若
い女の先生が居ます。先代のユウコ先生から引き継いで、楽器贈呈の段取りなど
私達に協力してくれているマサエ先生です。音楽と体育を担当していて、今年1
月の訪問の際にはいろいろお世話になり交流のミニパーティでは一緒に歌ったり
踊ったりしました。帰国後もメール交換を続けていますが、今回は彼女とのやり
とりからゲットした「あれこれ」をQ&A形式でご紹介しましょう。

Q.学校制度は日本とどう違いますか?
A.ここパラオの小学校は1年から8年生までで、ここを卒業すると次は高校に
行くことになります。日本で言う小学校1年生と中学校2年生までの生徒が居る
わけですからどうなのだろう‥と思っていましたが、校長先生が上級生に「君た
ちの行動は低学年の見本です。もし悪いことをしたり、悪い言葉を使ったりした
ら、低学年の子供達はそれが正しいことだと思いマネをします。だから‥‥」と
いった教育をされているので、上級生はとてもしっかりしています。
 また、大きな違いとしては留年制度があることでしょう。主要科目で理解度が
低いと何年でも留年です。ですから、兄弟で同じ学年になったり、追い越してし
まったりということも起きます。そのせいか、休み時間は学年関係なく一緒に遊
ぶ姿がよく見られます。

Q.子供たちの将来の夢はどうですか?
日本では、男子はプロスポーツ選手、博士、女子は食べ物屋さん、看護士さんな
どが上位にランクされていますが。
A.私も興味があって、高学年の生徒に聞いてみた事があります。とても驚いた
のですが、女子で一番多かったのは、なんとソルジャーだったのです! 次が音
楽・体育教師で、女優、宇宙飛行士と答えた子も居ます。男子は、やはり多くの
子がプロバスケツトボールの選手でしたね。後はパイロット、教師などでした。

Q.では逆に親達は、子供にどんな期待をしているんでしょうか?
A.お父さんお母さん達は、やはり子供には立派な人になってもらいたいと願っ
ていると思いますが、日本のように医者になって欲しいとか、公務員、教師にな
って‥とか、そういう風に考えてるようには思えません。基本的には親達が「お
金が無くても、ここでは生きて行けるのよ。」って人たちなので。イイなあ‥‥

Q.嬉しいこと、困ったこと、驚いたことなどお話して下さい。
A.嬉しいことは、いつでも会えば子供たちが「まさえ〜!」と声をかけてくれ
ることですかねえ。
困ったこと‥‥あえて言うなら、かんかん照りの中での体育ですかね。
体育館が無いのですべて外でやるのですが、本当に日差しが強い時には子供たち
もグデ〜としてしまいます。でも、強いて挙げるならの話です。
驚いたことと言えば、子供たちの木登りの上手なこと。枝の無い椰子の木にスイ
スイ登って実を蹴落とすんですよ。

※もっと色々ありますが、続きは来年1月のパラオツアーの際にしましよう。

1月のパラオで合いましょう



 相模原市国際交流協会(SIA)    Sagamihara International Association


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